就活③ 面接へ行った感想

・意外と苦しくなかった面接

 先日、3つの会社に面接に行った。結論から言うと手ごたえは悪くなかった。3社とも面接官(社長や部長ばかりだった)はとても優しかった。大学を出てからの空白期間については、当然理由を聞かれたが、「資格の勉強をしていた」という説明で納得してもらえ、特に深く追及されたり、厳しいことを言われることは全くなかった。

 

 ほかにも意外だったことはあった。面接は、面接官の側がたくさん質問してきてそれにうまく答えないといけないイメージだったけど、実際は「何でも聞いてください」という感じで、「逆質問」がとても多かった。1社は多少は向こうからの質問もあったが、他2社は面接(約1時間)の間の9割くらいの時間が逆質問だった。どの人もとても丁寧に答えてくれた。エージェントの人にも言われていてある程度の数は質問を考えてきていたので、それを言えばよかったし、相手に答えてもらっている間に結構時間が経った。また、その場でも意外に質問が次々と思いついて、それを言って何とか乗り切れた。もちろん失礼なことは言わないよう気をつけて質問し、基本会社をほめるような感じのことを言った。

 面接官は、「この人はうちの会社のことをよく調べてきているか」を見ているのももちろんあるだろうが、それよりも、「会社のことを深く知ってほしい、入社後のギャップをなくしてすぐやめてほしくない」と考えているという印象を受けた。

 

・答えたことは半分本当で半分嘘

 空白期間についての質問や、それ以外のあらかじめ想定していた質問、していなかった質問をされ、それに答えた。あらかじめシミュレーションしていた通り、半分本当で半分嘘、という答え方をした。というのも、経歴や持っている資格などは本当だが、その内容はだいぶ話を盛ったのだ。

 具体的に答えたことを言うと、空白期間については(前回書いたように)行政書士の勉強をしていた、ということを言ったのだが、無職の間ずっと勉強してたわけではない(そんなに長期間の勉強が必要なほど難関ではない)。また、自己PRで大学生の時やっていたボランティアのことについて言ったのだが、そのボランティアをしていたことは事実なのだけど、実際にはそこまでたくさん活動したわけではなく、全然活躍できたわけでもないにもかかわらず「精力的に活動し、○○というふうに活躍した」と、大分話を盛った。

 

 嘘はよくないし罪悪感は少しあったが、面接は正直に言えばいいわけではないだろう。もし真実を言ったら、つまり、「学生時代、積極的に活動することはなく、その後も社会に出るのが怖くて、ずっと引きこもっていた」と言ったら、ふつうは採用されないだろう。面接中、「結構嘘ついてしまってるな」と後ろめたさを感じつつ話しているときもあったが、ニートという地獄のような現状から抜け出すには仕方ない、と自分を納得させた。

 

 面接を終えてみて、3社とも、「入社させてください」という感じで押せば入れてくれそうなところばかりだった。向こうも、特に問題なさそうな人物なら入社してほしいという感じだったし、自分が悪い印象を与えた感じもなかった。

 

 今回、初めて面接という就活のステップを踏んだことで、結果がどうなるにしろ少し楽になった。

 

就活② 就職エージェントに登録

・複数のエージェントに登録してみた結果

 前回書いたように、ハローワークに行っても就職がうまくいきそうにないので、エージェントに登録してみた。もちろんエージェントを使わず自分で求人を探して応募すればよいのだが、無数にある企業の中から自分でもやっていけそうな会社を選ぶ、というのは難しいと感じるし、就活自体をやったことがなく、どうしたらいいか全くわからないので人の助けを借りることにした。

 

 最初に登録したところでは、自分の経歴や資格を入力したら求人がメールで送られてきた。「スカウト」ということで意外とたくさんの企業からメールが来るが、職歴なしの自分なんかに向こうからオファーが来るのは怪しいと思い、すぐに登録解除した。(もちろん、ブラックというわけでなく、仮にそれらの会社に応募しても余裕で落とされたのかもしれないが。)

 

 次は、担当者の人との面談があるというエージェントに登録した。そもそも、ネットで就活について調べるようになって、意外と世の中に就活エージェントがたくさんあると知ったのだが(自分のようなニートやフリーター向けのエージェントに限ってもたくさんあるので驚いた)、その中でここにしたのには特に意味はなく、適当に選んだ。担当者の人は優しそうな人でよかった。でも、紹介された仕事は建築関係(現場監督)と、機械エンジニア系で、自分にはハードル高そうだし、あまりピンとこず応募しなかった。仕事を選んでいる立場ではないのだが、長く続けられそうにないと思った。

 

 その後、また別のエージェントに登録した。ここを使って正社員になったという人がネット上にいて、良さそうだったので選んだ。ここは研修もやってくれて、ビジネスマナーや面接での効果的な話し方を教えてくれたり、話す内容の添削をしてくれた。

 

・職種はどうするか?

 職種については、私は文系の大卒で未経験ということなのだが、この場合受けられる求人は大きく次の4つ―営業職、事務職、エンジニア職、サービス職らしい。最初、営業とか絶対無理だから、事務系がいいと思っていたが、男性だし狭き門で厳しいとエージェントの人に言われた。常識的なことらしいが、無職の私はそんなことも知らなかった。エンジニアについては、IT系の仕事もあるが、一からプログラミング言語とかを覚えるのが難しそうなのでやめた。販売・サービス業については、お客さんから来てくれる分、営業よりもハードル低いらしい。ただ、営業とほぼ同じだし、(そのエージェントによると)営業の方がコミュ力が鍛えられるからつぶしが効くらしい、ということで、どうせなら営業目指そうか、と思い始めた。そして、とりあえず、営業職と製造職に焦点を当てて求人を見ていくことに決めた。

 

そして、このエージェントに紹介された3社に面接に行くことが決まった。嫌だし、緊張するが、無職から脱却するためには逃げられないことなので頑張ろうと思う。

 

就活① 行政書士試験に合格! が・・・

行政書士試験を受けた理由

 今年度の行政書士試験に受かった。行政書士を取ろうと思った理由は2つある。一つには何かしら資格を取って精神的に楽になりたかったから。二つ目は履歴書の資格の欄に書けることをつくり、かつ面接時のニート期間の言い訳のためだ。就活について書かれたある本を読んだら、ニート期間について「行政書士の勉強をしてました」と説明するという言い訳づくりのために目指す人も結構いると書いてあったのだ。

 私は法学部だったので、大学生の時のノートを見返しながら勉強した。参考書(過去問)も2冊買って、2か月半ほどの勉強で受かった。初学者だったらもっと長い期間勉強しないと受からなかっただろうし、今年度は簡単だったらしいので、本当に運が良かった。

 実際、資格を取って精神的に少し楽になった。ただ、行政書士は取得しただけで万歳とはならないらしい。行政書士は独立開業するのが一般的らしく、法律事務所に属して働けるとは期待すべきでないらしい。

 また、行政書士として活躍している人達について書かれた本を読んでみたが、もともと親が開業していたとか、知り合いがやっていたとか、何年か会社員として働いて得た知識・経験を活かして行政書士として成功している人などが多かった。なかには、一から開業して成功した人もいるみたいだが、相当優秀な人なんだろう。

 自分は全く社会人経験がないし、潤沢な資金もないし、コネもない。そんな状態で開業する気概などない。ということで、もともと真剣に目指そうと思っていたわけではないが、行政書士になることは完全にあきらめた。

 

ハローワークへ行ってみたが・・・

 とはいえ、せっかく法律の勉強をしたからそれを活かせる仕事に就きたいと思い、相談に乗ってもらおうとハローワークに行ってみた。ただ、職員の人に「行政書士取りました」と言ったけど、全然反応が良くなかった。「だから何?」みたいな感じだった。法律に関係ない仕事すら全然紹介してくれないし、相談にも乗ってくれない。こんなものなんだろうか? やはり空白期間があるからダメなやつと思われているのだろうか?

意気消沈して家に帰った。これからどうすればいいのか。

ニートへ① ニートは無力だ 

 今回はニートが心にとどめておいた方が良いことについて考えてみた。今回の記事は、自分自身の反省、自戒のために書いた。(もちろん病気や家族の介護で働けない人、資格の勉強をしている人などは除き、そのような事情のない私のような人間が自覚しておかなければならないことについて気づいたことを書いた。)

 

ニートは人助けをすることが難しい

 ニートでいる中でたびたび感じる苦しみは自分は本当に無力であると自覚させられることだ。というのも、無職だと社会的な立場が非常に低いし、将来への不安感が常につきまとう。だから苦しい。そして、自分が苦しい状況にあるからこそ世の中の弱者の人たちに対して同情する気持ちが出てくる。たとえば、ニュースでいろいろな事件を見て、社会的に孤立していて追いつめられ犯罪をしてしまった人、いじめで自殺してしまった子どもたちなどに対して「気持ちがわかる」とか「助けてあげないといけない」と思うことがよくある。しかし、実際そういう苦しんでいる人たちを助ける力が自分にあるのか、というとまったく無いのだ。この点がつらい。

 

 また、次のような問題もある。上記のように自分は弱者の苦しみに対して敏感になっている、弱者に共感している、と感じてきたのだが、最近これは本当に共感、同情だけなのだろうか?と思い始めた。

 というのも、ルサンチマンという部分もあるのではないか?と思ったのだ。つまり、エリートや金持ちに対する嫉妬、憎悪を弱者への共感だとゆがんだとらえ方をしてしまっているふしもあるような気がするのだ。実際私は、彼ら社会的成功者に対し、「運がよかっただけだろ」とか「自分たちだけいい思いをしているのでは」とか「下層にいる人間に目を向けてくれよ」と腹立たしい気持ちになるというように被害妄想ともいえる感情を抱いてしまうことも多々ある。このような成功者への憎悪を弱者への深い共感能力と取り違えている面もあるかもしれない。

 

・「弱者の苦しみに敏感である(かもしれない)が人を救えないニート」と真逆の存在、「シンドラー」

 弱者に共感しているからといって、彼らを実際に助ける力は持っていないという問題についてさらに考えてみる。

 『シンドラーのリスト』という映画を見た。実業家オスカー・シンドラーは大勢のユダヤ人を救ったことで有名だ。ただ、シンドラーユダヤ人を救うことに初めから熱心であったわけではない。ナチスの党員だったし、基本的には自分の事業を成功させ富と名声を得ることしか考えていなかった。彼は工場を持っていて、労働者としてユダヤ人をたくさん雇っていたが、それはポーランド人よりも安く雇えるからであって正義感からではない。しかし、結果的にユダヤ人たちは雇用されているという証明書を持っていることで強制収容所に送られることを免れた。そして、迫害され、残虐な扱いを受けるユダヤ人たちを目の当たりにしてシンドラーは徐々に心が動いていき、最後には自分の工場の労働者として多くのユダヤ人の名前をリストに入れていき、彼らが収容所へ送られるのを阻止した。

 シンドラーは基本金儲けのことしか考えていなかった。でも彼は権力を持っていた。だから人を救うことができた。ひとたび「助けたい」と思ったときにそれを実行できたのだ。 お金儲けの追求と人助けの実現は矛盾しないのだ。

 

 お金は権力だ。お金があればひとたび憐みの感情を持てばすぐに人助けを実現できる。だがニートはどうか。場合によっては利他心を持ち続けることができている人間もいるだろうが現実に人助けを実現できるかというと難しいだろう。

 当然、1100人以上の人を助けたというシンドラーの話は極端な例だし、戦時下という特殊な状況でもあった。しかし、一般的にも会社の経営者は雇用を生み出せるし、お金があれば苦しむ人に何かしらの支援ができることは確かだろう。無職である人間もお金を稼ぐことだけを考えて仕事につき、まずは親、家族を助けないといけない。そういう意識を持っていることも大事かもしれない。

ニートは無力だということを自覚しないといけないのだ。

 

ニートでいることの不利益

 世の中のこと、社会常識が分からない、人目が気になる、どこにも行けない、結婚できない、、、。このように、無職でいることの不利益は挙げ出すときりがない。その中でも今回特に注目するのは、下の世代の子たちに良い影響を与えられない、という不利益だ。ニートだと、自分の就いている仕事に関する情報提供もできないし、「こうしたらうまくいくよ」という働くうえでの一般的なアドバイスなどもできない。そして、年下の子、子どもたちの手本にならない。そうなるとまた自分の周りで自分のような人間が生まれてしまいかねない。やはり働くべきなのは間違いない。

 

・まとめ

 ニートは自立できていない。なので他人を援助することはなおさら難しい。人を助けたいと思ってもその力がない、無力な存在であることをまず自覚すべきだ。

また、お金を稼ぐことばかり考えるのはなんとなく卑しいとか思いがちだが、まちがいなくお金があることでちゃんと人の役に立てるのだ。現状、利益ばかりを追求しているとしても、人を救える可能性が非常に低いニートでいるよりましだということだ。また、下の世代の子たちの将来を考えても、自分が働いている方が良いと言える。

 

 当たり前のことでわざわざ言うことでもないかもしれないので、正直今回書いたことはくだらない。「じゃあ早く働けよ」という話なので。ただ、自戒のために以上のことを頭に入れこれから就活をしていきたいと思った。

いじめられているときの心理状態

 いじめで自殺してしまう子どものニュースをよく見る。人は、いじめられているとき何を感じているのか? どういう心理状態になっているのか? 大人はどうするべきか?

 私は中学生の時、いじめに近い経験をした。近い、というのは私は暴力は受けておらず、悪口や罵声レベルでニュースなどで見るようなひどいものではなかったからだ。だから、本当にひどいいじめを受けている子と当時の自分の心情とはずれているかもしれない。ただ、1年ほど続いたのもあり苦しかったことは確かなので、今回はその時自分がどう感じていたかを思い出し、(想像も含め)いじめられている子の普遍的な心情、そして、周りの大人はどういう態度を心がけておくべきかを考察する。

・当時の自分の心理状況

 私はまず、嫌なことを言ってくる相手に対して怒りを感じたが、それ以上に自分自身が情けなくて仕方なかった。いじめられている、バカにされている自分が恥ずかしい。自分は情けない目に合うに値する人間なのか、と思い始める。そして、自分が情けない状況にあることを他人に知られたくない。だから誰にも打ち明けられない。家族にも言えない。むしろ家族だからこそ言えなかったかもしれない。つらいことは確かだが、それを告白することに恥ずかしさが伴う。

 さらに、自分はダメな人間として運命づけられているのではないか、という疑念がわいてくる。ダメな人間として運命づけられているとしたらそれはとんでもない事だ。もしそうなら、自分は今後何をやってもうまくいかないのではないか、と思った。いじめている人は、相手の自尊心を奪っていると聞いたことがあるが、まったくその通りで自分は何に対しても自信を相当喪失した。

・なぜ、助けを求めない? → 求められない

 いじめで自殺する小中高生のニュースを見て、自殺するくらい思い悩んでいたなら、なぜ周りの大人に相談しなかったのだろうと疑問に思う人がいるかもしれないが、相談できなかった気持ちがわかる気がする。恥ずかしさ、情けなさを感じているので、他人に告白するのには勇気がいる。また、自分の抱えている悩みが深刻であればあるほど相談相手は選ぶものだ。いじめられていた子本人にとって信頼できると思える大人が先生含め周りにいなかったのではないか、と思う。

 たまたま図書館で手に取った本に、当時の自分の心情がほぼそのまま表現されている部分があったので引用する。

 教師や親は、何とかいじめを早期発見するために、子どもからの訴えを重視している。しかし実際には、被害者には訴えない、あるいは訴えられない心理が働くと考えたほうがよい。とくに思春期・青年期の子どもにとって、訴えない最大の理由として、自尊心(自己受容)の低下があげられる。みんなからいじめられているうち、「自分に何か欠点があるのではないか」と自責の念にさいなまれ、自分が悪いんだと思い込んでいく。あるいは、いじめられている自分がどうしようもなくみじめで、自己嫌悪感に陥り自分を消したいと思う。思春期・青年期が自己らしさを受け入れることによって、アイデンティティ(自己)を形成していく発達段階にあることを考えると、自分に対する自信や価値が形成されていない状態で、いじめ(集団によるネガティブな評価)を受けたときの、自己へのダメージの大きさと急激な自尊心の低下は想像以上である。また自分がいじめられているということを、まわりの大人(教師・親)に公表することも、自己の自尊心の低下につながる。いじめられるような人間であるとまわりからみられたくないといった自己防衛の気持ちも働くであろうし、他人からそうみられることによってますます自己嫌悪に陥るであろう。また、殴られたり辱めを受けている惨めな自分を、たとえ親であってもさらしたくないというプライドも存在するであろう。*1

また、こうも書いてある。

もう一点、訴えない理由として見逃せないのが、人間に対する不信感である。*2

自分がつらい状況にあるのに、誰も助けてくれない、つらさを分かってもらえないことによって他者に対する不信感が強まり、一人で抱え込むことになっていくのではないか。

 

 栃木県の小学校で、いじめを受けていた子が助けを求めて書いた文章を、教師がそのまま教室に張り出すという出来事があった。これはとんでもないことだ。相当なショックを受けたのではないか。上記のように告白すること自体に強い抵抗があっただろうから、相当勇気を出して訴え出たのだろうと思う。この先生のような大人しか周りにいないと思える状況なら、苦しみを告白できず一人で抱え込むことになってしまい、一層悪い方向へいってしまうだろう。

・まとめ

 まず、いじめにあっているとき、いじめられていることに恥ずかしさを感じており、だからこそ人に告白して助けを求めることを躊躇することは多いのではないかと、私は思う。このような子どもの心理状態を理解し、大人は慎重に子どもに寄り添うことが必要だろう。また、大人は日頃から、いざというときは味方になるという姿勢を見せて信頼感を得ることが大切だろう。

 ただ、学校の先生が忙しすぎて、生徒たちをしっかり観察して一人ひとりに目を向けいじめを発見し、対処する余裕がないということもあるかもしれない。このような問題があるなら、それを解決するために先生を非難するだけでなく社会全体で考えていくべきだ。先生たちの労働時間を短くしたり、負担を軽くしていくことがまず大切であり、それが結局子供たちのためにもなるだろう。

 

今回は、子供のいじめを訴えられない心理などが、もしかしたら多くの人に見落とされているのではないかと個人的に考えていたのでこの記事を書いた。(ただ、私は心理学などの専門知識がないのでおかしなことを書いていたらごめんなさい。)

引用した本は、いじめや不登校の問題を考えるにあたって知っておくべき事が事例に沿ってたくさん書かれていておすすめです。

 

 

参考文献

田上不二夫編著『スクールカウンセラー事例ファイル1 いじめ、不登校』(福村出版 1998)

https://www.asahi.com/articles/ASMD46V8RMD4UUHB01N.html

 

 

 

 

*1:田上不二夫編著、1998 15,16頁

*2:同 16頁

なぜ将来の夢や目標、やりたいことが見つからないのか?

・将来の夢や目標、やりたいことがみつからない理由

 私は今まで、将来の夢をもったことがない。将来の夢(特に将来就きたい仕事)を聞かれても答えられないということがよくあり、それに引け目を感じてきた。夢や目標がないと、ダメなやつ、何も考えていないどうしようもないやつだと思われがちだ。一方、中学生や高校生くらいの早い段階で将来のやりたいことが決まっている人間はいる。目標があれば、その実現に向けて努力しようという気になるので、やりたいことが早くから決まっていることは、当然良いことだ。

 

 早くから将来の夢が見つかる人間とそうでない人間の違いは何か? 夢や目標が見つかってこなかった責任は自分自身だけにあるのか?と、私は疑問に思ってきた。そこで、将来の夢が見つかりやすい場合を考えることで考察してみた。

(といっても私はとっくに成人しているし、今更将来の夢がどうとか言ってられない。ただ、将来何をしたらいいか全くわからず、そして、目標に向かって努力することをしてこなかった自分はひたすら責められるべきなのか。少しは言い訳させてほしいと思ったのでこの記事を書くことにした。)

 

次に挙げたのは、私が考える、将来の夢や目標が見つかりやすい場合の大まかな類型とその例だ。

・将来の夢・目標が見つかりやすい場合のパターンと具体例

(よく目にする「成功者」が語る経歴などが書かれた記事やインタビューをもとにして大体のパターンを考えてみた)

①際立った才能がある

 例:頭が良い(理解力が高い、記憶力が良い) →研究者になりたい

   運動神経が良い     →スポーツ選手になりたい

   絵を描くのが得意    →画家になりたい

②家業を継ぐ

 例:家が自営業をやっている   →その家業を継ぎたい

   代々芸能や職人の家系である →その家業を継ぎたい

③身近に「こういう大人になりたい」と思える人がいた

 例:母親が看護師 → 看護師になりたい

④夢や目標が見つかるきっかけとなる事件に遭遇した

 例:子供のころ、重い病気にかかって医者に世話になった 

    →医者になりたい

   刑事事件に巻き込まれた  →法律家になりたい

   学生時代に尊敬する先生に出会って世話になった 

    →教師になりたい

   何かしらのボランティアに参加した 

    →そのボランティアに関係する職に就きたい

⑤(①~④のいずれか、または複数あてはまった上で)短絡的な気質の人間であること

 

・①について

 優れた才能を持っているため、必然的に将来の目標が決まる人間は(少数だろうが)いる。こういう人は本当にうらやましい。(何かをすることがとても好きだ、というのも①に含む。)

・②について

 特別何か家業をやっている家に生まれて、それを継ぐ、というパターンだ。特に深く悩まず、家の仕事を継ぐことを選んで、満足した生活ができている人はうらやましい。

・③について

 親などの家族、親族、その他身近にいた人が、かっこいいとか尊敬できる大人で、同じようになりたい、あるいはその人が働いているところを見たり、仕事の話を聞いて、その仕事に興味を持ち同じ職に就きたいと思うようになるパターンだ。そういう大人が身近にいるから、その仕事が具体的にどういうものなのか知ることができたり自分がその職に就いて働く想像ができるとか、この仕事に就きたいならこうしたらよいとアドバイスをもらうことができるなどということから、やりたいことが決まる人も結構いるだろう。

・④について

 人生の中で、尊敬する大人に出会ったり、特別な出来事に直面して、やりたいことが見つかるという場合である。(④は③と重なる部分がある。)

・⑤について

 さらに①~④に加え重要なのが、自分はその仕事に恐らく向いているとか、将来その仕事をすべきだと思い込める短絡さをもっていることだ。才能を持っていたり、ある家業をやっている家に生まれたとしても、「自分は本当にこの道を選んでやっていけるのか」「家の仕事は継ぎたくない」などと悩むことはあるだろう。このような葛藤にはまってしまわないような単純さを(その人の気質として)もっていることは、目標を早く決められるかという観点からは望ましいことだ。

 

 →ここでわかるのは、①~⑤はすべて偶然によって左右されるということだ。自分が夢や目標が見つかりやすい境遇にいるかどうかは運で決まってしまうのだ。

 ただ、④に注目するとボランティアの例のように、自分から行動を起こして、夢を見つけられる余地はあると分かる。

 

 私は不運にも①~⑤のどれにも当てはまらない。つまり、何の才能もなく、家が特別な家業をやっているわけでもなく、身近にこうなりたいという人もいなく、特別な事件に遭遇してこなかった。さらに、良い意味でのある種の短絡さも持ち合わせていない人間として生まれてきてしまった。だから、自分が夢や目標を見つけられなかったのはある程度仕方ないと言えるのではないか。

 

まとめ

 夢や目標が早いうちから決まっている人間はポジティブな印象を与え(かつ、それは当然望ましいことだ)、決まっていない人間はネガティブな印象を与える。しかし、①~⑤とその考察からわかるように、夢や目標は偶然による、恵まれた条件(環境)下で見つかりやすくなるのだ。夢や目標を持てるかどうかは偶然に強く依存するというのが今回の私の主張であり、私(無職)の言いわけだ。

 

 ただ、夢や目標は早く見つかった方がいいので、見つかっていない中高生や大学生などにアドバイスするとしたら、④に関連して多少の努力をするしかないということだ。つまり、夢や目標が見つかるきっかけとなるような出来事に遭遇するため、あるいは、いろいろな大人に出会うため、自ら行動してみるしかない。(自分もそうすべきだった)

このことを考えると、冒頭で書いた「夢や目標が見つかってこなかった責任は自分自身だけにあるのか」ということについては自分に責任が全くないわけでもないといえる。

 ただ行動を起こしてもダメだということもあるだろう。やはり偶然に左右されるという側面が大きいと思う。

 自分のような人間も少なからず存在し、そういう人は生活のため、別に積極的にやりたいとも思えない職についているのだろう。自分もいずれそうやって何とか仕事を見つけなければならない。また、職に就いたのち、事後的に「この仕事は楽しい、やりがいがある」「この仕事は自分のやりたいことだ」とわかったり、「何か別の仕事をやりたい」という夢が見つかることもあるのだろう。